1963年3月に発生した
吉展ちゃん誘拐殺人事件。

この事件では国内で初めて報道協定が
結ばれたり、刑法が厳罰化されるなど
社会に大きな影響を与えました。

この事件の犯人は小原保という
無職の男でした。

逮捕には至ったものの被害者の
吉展ちゃんは寺の墓地より無残な姿で
発見されることとなります。

なぜ小原はこのような凶行に
およぶに至ったのでしょうか。




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生い立ちについて

小原は福島県の貧しい農家の
生まれでした。

11人兄弟の10番目、五男だった
のだそうです。

当時としては珍しくない典型的な
田舎の一家庭だったといえるでしょう。

貧しかったゆえか小学生の頃には
山道をわら草履で登校していた小原。

冬には足があかぎれになってしまった
そうですが、その傷口が化膿したことで
骨髄炎にかかり手術を受けることに
なってしまいます。

この出来事がその後の彼の人生を
大きく変えてしまったといえる
のではないでしょうか。

手術後、小原の右足は曲がってしまい
歩くのも不自由になってしまいます。

こうして後天的な障害を負ってしまい
まともに学校にも通えなくなって
しまいました。

貧しい農家の大家族であれば余計に
人足が必要だったでしょうから、
働き手にもならない小原は家での
居場所もなかったのでは
ないでしょうか。

そんな息子に母親は手に職をつけさせ
ようと時計職人に弟子入りをさせます。

せめてもの親心でしょうか。

その後、仙台の身体障害者職業訓練所の
時計科を出ると時計店に勤務するように
なります。

こうして小原は時計修理の職人の道を
歩みだしたわけですが、しかし肋膜炎を
患ったことでこの時計店を辞め、
ふたたび実家に戻ってしまいます。

せっかく職を得たにもかかわらず
病に伏すとは間が悪いというか、
人生うまくいかないものです。

その後も時計修理の職人として
職を転々として東京に流れ着いた小原。

東京でも安定した生活を得ることは
できなかったようで、10万円ほどの
借金を負っていたのだそうです。

当時の教員の初任給で14,000~15,000円
という時代ですので、今で言えば100万
くらいに相当するのでしょうか。

折りしも1963年は東京五輪の前年。

高度経済成長の真っ只中で東京にも
今以上の活気があったはずですが、
小原にとってはそれでも居場所が
見つからなかったのでしょうか。

すでに横領や窃盗で前科5犯にまで
なっていたのだそうです。

そうして借金の返済にも追われながら、
さらに勤めていた時計店を解雇された
彼は追い詰められていきます。

ここで故郷の親元に頼れなかった
彼には本当に行き場がなかった
ことが窺えますね。

そうして1963年3月31日、台東区にある
入谷南公園で遊んでいた村越吉展ちゃん
を身代金目的で誘拐するに至ります。

吉展ちゃんを選んだのは外国製の
水鉄砲で遊んでいたことから
家が金持ちだと判断したためだと
のちに供述しています。

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殺害の動機

「足が痛いの?」

公園から連れ出した吉展ちゃんは
足を引きずる小原にそう問いかけた
のだそうです。

4歳の男の子の素朴な疑問、
あるいは足の不自由な人に対する
いたわりだったのかもしれません。

しかし、小原は吉展ちゃんのこの言葉で
「生かして帰せば足の悪い男だったと
証言されてすぐに捕まってしまう」
と判断。

そこで殺害することを思い立ったと
のちに供述しています。

言っても詮ないことと分かりつつも、
吉展ちゃんのその一言がなければ・・・
とも思ってしまいますね。

そもそもが彼自身の体の自由を奪い、
その境遇をも左右した足の障害が
殺人のきっかけにまでなるとは
因果なものです。

結局この殺害容疑により小原は
死刑判決を受け1971年12月に
刑が執行されました。

享年38歳。

死後、小原の遺骨は小原家の墓には
入れてもらえず、その横の地面に
埋葬され、ただ盛り土がされていた
のみだったそうです。

加害者側の家族としても苦しめられた
ことを考えれば、このような仕打ちに
なってしまうのも致し方ないの
かもしれません。

ただ、小原自身が足に障害を負うこと
なく少年期を過ごしていれば、学校にも
通い、自分のしたい仕事を選べるような
至ってふつうの人生を送っていた
のではないかと考えてしまいます。

刑を待っていた期間、小原は刑務所で
短歌を学び、死後に歌集が出される
までに上達し、悔恨の日々を送っていた
のだとか。

いたいけな幼児の命を奪っていますので
一切同情はしませんが、この小原も
与えられた運命に翻弄されただけの
一人の人間だったのかもしれません。

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