戦国時代の“おんな城主”というと
大河ドラマの井伊直虎が有名ですが、
じつは歴史上、もう一人“おんな城主”
といわれる人物がいます。

それが「おつやの方」。

あの織田信長の叔母にあたり、
美濃・岩村城(岐阜県恵那市)
の城主を務めました。




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その生涯とは

おつやの方は信長の祖父・
信定の娘といわれています。

江戸時代に書かれた巌邑府誌
(がんゆうふし)には
「信長の女弟なり」
といった記述もみられますが、
今のところ信長の叔母というのが
有力だそうです。

その生年は不明ですが、叔母と言いつつ
信長よりも年下であったと
みられています。

信長の妹のお市の方も戦国一の美女と
伝わっていますが、おつやの方も
絶世の美女だったのだとか。

まぁ織田家は現代にもよくある美男・
美女の家系だったんでしょうね。

そんなおつやの方は岩村城主である
遠山景任の元へ嫁ぎます。

いわゆる政略結婚ですね。

しかし、景任はのちに病死。

おつやの方との間に子供がなく、
信長の五男である御坊丸を
養子に迎えます。

ここで幼かった御坊丸に代わり
おつやの方が城主を務めることと
なります。

“おんな城主”の誕生ですね。

しかし、信長にしてみれば織田氏と
武田氏に両属していた景任の岩村城を
まんまとせしめられたわけですので、
ホクホクだったでしょう。

実際に信長は岩村城に軍勢を
送り込んでいます。

こうして織田氏の傘下となった
岩村城ですが、まもなく敵対する
武田氏が攻め上がってきます。

武田方の大将は秋山虎繁。

三千の兵によってたちまち城が
取り囲まれてしまいました。

おつやの方も当然、信長に援軍を
要請しますが、上洛を狙う武田信玄の
西上作戦に対抗していたため、
援軍を出すことができませんでした。

籠城を強いられることと
なったおつやの方。

疲弊する中で虎繁より
密使が送られてきます。

密使が伝えてきたのは虎繁からの
降伏勧告で、このまま開城すれば
御坊丸をはじめ全員の命を保証する
というものでした。

しかし、その条件の一つとして
おつやの方が虎繁の妻となることも
提示されていました。

どのような心境でこの降伏勧告を
受けたのかは知る由もありませんが、
結果的におつやの方は虎繁の条件を飲み
開城を決断します。

無血開城というと響きはいいですけど、
一方で信長にしてみれば単なる裏切り。

怒り狂った信長が軍勢を差し向けますが
武田軍に返り討ちにされ撤退します。

ちなみに養子だった御坊丸は
人質として甲斐の国(山梨県)へ
送られました。

しかし、それから間もなく武田信玄が
死去したことで武田氏が衰退。

信長は歴史に名高い長篠の戦いで
勝利すると、息子の信忠に三万もの
大軍を預けて岩村城を攻めさせました。

なんと半年もの間、城を包囲したそうで
虎繁にしてみれば自分がかつて
おつやの方を相手にしたのと同じ作戦で
攻められたことになりますね。

実際のところ岩村城は本丸が
海抜717mもあり、日本三大山城に
数えられるほどの堅牢な城でした。

やはり兵糧攻めがもっとも
有効な手段だったんでしょうね。

結局、武田からの援軍も来ず、
虎繁は城兵の命を保証することを
条件に降伏します。

一見、血を流さずに戦を終えられて
よかったかに見えましたが、そこは
天下の織田信長。

約束を反故にして城兵をことごとく
焼き殺したうえ、虎繁も捕縛。

さすが鳴かないホトトギスは
容赦なく殺してしまう男ですね。

このときおつやの方も一緒に
捕らえられたようです。

虎繁は赦免されることなく、
長良川の河原で逆磔(さかさはりつけ)
にされて処刑されました。

おつやの方の最期については
はっきり明記しているものは少なく、
「成敗された」とだけ書かれている
ものや一緒に処刑されたという伝承が
残ってるのみです。

いずれにせよここで歴史上から
姿を消しています。

おそらく享年30歳前後
であったと思われます。

墓所は存在せず、この扱いからしても
当時の信長の怒りのほどが窺えますね。

唯一、岐阜県恵那市岩村町の
妙法寺に虎繁とその一族の
供養塔が建立されています。

17051301

子孫について

おつやの方の養子で武田氏へ人質に
出された御坊丸は武田氏の衰退後は
織田家に戻り、元服後は織田勝長と
名乗りました。

のちに本能寺の変で明智光秀の軍勢に
攻められて討ち死にしています。

おつやの方と虎繁の間には子供が
いなかったというのが通説ですが、
じつは織田軍によって陥落させられた
岩村城の戦いの中、密かに嫡子が
落ち延びていたという話があります。

その子供は六太夫という名で伊豆から
安芸(広島県)へ抜けて小早川隆景
の元で育ったのだそうです。

のちに馬場六太夫と名乗り、
豊臣秀吉の朝鮮出兵にも従軍。

その後、関ヶ原の戦いで
命を落としたのだそうです。

じつはその六太夫の子孫は現代にまで
続いており、馬場家には六太夫が
おつやの方から持たされたという
観音像が今も伝わっています。

はるか昔のことなので落ち延びたという
事実も本当かどうか分かりませんが、
非業の最期であったであろう
おつやの方の子供が密かに生き残って
いたと考えるだけで少し救われた
気持ちになりますね。

女城主で一杯

現在のところ、おつやの方が城主として
采配を振ったという歴史上の史料などは
認められないのだとか。

のちの創作である可能性も
あるわけですね。

しかし、地元では“おんな城主”で
町興しもしており、岩村醸造では
「女城主」という日本酒も販売中。

岩村城跡を見物したり、史跡めぐりを
した後に女城主で一杯やりながら
当時の歴史に思いを馳せるのも
いいかもしれませんね。

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