ウズベキスタンの首都タシュケントに
立つオペラ劇場「ナヴォイ劇場」。

1947年に完成したこの劇場の建設に
大きく貢献したのが第二次大戦で
ソ連の捕虜となった日本人たちでした。




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騙されて強制労働

当時の建設現場で指揮を執っていたのが
10野戦航空部隊の永田行夫さん(大尉)。

永田さんの統率によって劣悪な環境での
労働を乗り越えて、地震にも耐え抜く
すばらしい劇場を完成することが
できました。

そもそも終戦当時、日ソ中立条約を
破って侵攻してきたソ連。

投降した日本人たちをソ連は
「帰国させる」と偽って列車に
ぎゅう詰めにするとシベリアなどの
僻地で強制労働させていました。

条約を破ること自体、国家としての
信頼を失墜する行為ですが、強制労働は
明らかな国際法違反。

当の永田さんたちも「帰国させる」と
言われながら連行されたのはタシュケント
でした。

そんなふうにして連れてこられて不満や
落胆でやる気がなくなってしまい
そうですが、建設のリーダーを任された
永田さん、

「全員が健康で日本に帰ろう」と
みんなを励ましました。

当時25歳だったそうですので、若者にも
かかわらず落ち着いてみんなを諭せる
だけの度量があったのは大したもの
ですね。

労働にあたってはノルマが課されており
それを達することができなければ食事を
減らされるという仕組みになって
いました。

社会主義のソ連ならではの
仕組みですね。

そもそも食事内容も恵まれてはいなかった
ようですが、重労働の担当者はその
ノルマがこなせず、食事を減らされ、
空腹でさらに労働力が落ちるという
悪循環に陥っていました。

そこで永田さんは食事が分配された
あとに再度、分配し直して均一に
するように調整していました。

これをソ連の収容所の所長が咎めた
そうですが、労働によって得たものは
本人のものになる社会主義の原則を
盾にして自分のものを分け与えることは
問題ないはずだとやり返したのだとか。

機転を利かせることのできる頭の回転や
仲間たちを守るその姿勢はまさに
すばらしいリーダーシップですね。

そして、歴史に残る建築物を
日本人の誇りと意地にかけて作ろうという
永田さんの言葉によって全員が真剣に
なって作業に当たりました。

そうした真摯な姿勢によって地元の人々や
ソ連兵たちとも交流が生まれ、苛烈を
極めたという他の地域での強制労働とは
違ってタシュケントでの労働は明るいもの
だったのだそうです。

1947年に劇場が完成した際には
ソ連兵もウズベク人も日本人を
「すばらしい民族だ」と称えた
と言われています。

同じ日本人として誇らしいですね。

その仕事ぶりが本当にすばらしいもの
であったことは、1966年4月26日の
タシュケント地震においてまったくの
無傷であったことからも証明されて
います。

この地震では78,000棟の建物が倒壊した
そうで、同劇場が避難所としても
利用されました。

1996年には建設に携わった日本人を称える
プレートが設置されたそうですが、
大統領の命令で「捕虜」という表現は
しないように敬意が払われたのだ
そうです。

こうした配慮からも永田さんたちが本当に
尊敬されていたことが分かりますね。

現在について

永田さんは復員後、結婚されて二人の
お子さんに恵まれたのだそうです。

オフィス家具で知られる
岡村製作所に勤務。

役員まで務められていました。

そして、2010年にお亡くなりに
なったそうです。

しかし、永田さんたちが残した
大きな功績はこれからも
永く語り継がれていくでしょう。

ナヴォイ劇場の建設に携わった
日本人のみなさんに心より敬意を
表したいと思います。

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