1954年9月26日に津軽海峡で起こった
洞爺丸事故(とうやまるじこ)。

死者・行方不明者あわせて1155人
という国内でも類を見ない
海難事故となりました。




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事故の原因は?

この事故の一番の原因はのちに
“洞爺丸台風”とも命名された
台風15号の変則的な動きに
ありました。

9月18日に発生したこの台風は
9月26日未明に鹿児島県に到達。

時速80キロものスピードで
九州を縦断。

その後、中国地方から日本海に
出るとさらに時速100キロで北東に
進んでいきました。

すさまじく足の速い台風だった
ことが伺えますね。

これだけのスピードで進んいれば
あっという間に通過していくと
誰しも予想しますよね。

洞爺丸の近藤平市船長も経験則から
天候の回復は早いと読んで出港に
踏み切りました。

この近藤船長は周囲から“天気図”と
あだ名されるほど気象予報にかけては
名人だったのだとか。

ところが、この台風は北海道近辺まで
来ると時速40キロまで急減速。

誰しもが予測し得ないほどの
大ブレーキをかけてきたんですね。

そのために洞爺丸はすでに通り過ぎた
ものと思っていた台風と鉢合わせして
しまうこととなります。

補足すると当時は世界的に見ても
気象衛星による観測はまだ行われて
いませんでした。

現在でも台風の予想進路って
そのとおりにはいきませんから、
経験や勘頼みだった当時では
これが限界だったのかも
しれませんね。

風速40メートルを超える猛烈な風と
それにともなう波浪によって
洞爺丸は錨を下ろしてその場に停泊。

これは投錨仮泊法という強風時の
対策としては有効な手段の
はずでした。

しかし、今回の台風15号は想定された
強風よりもさらに風が強かったために
逆に錨を中心に船が振り回されるような
状況に陥ってしまいます。

それに加えて船尾から浸水したことで
ボイラーが停止し、文字通り身動きが
取れなくなってしまいました。

そして、最後には洞爺丸は横転し、
船体は裏返しの状態になって転覆。

正確な気象観測もできない時代、
強風時のでき得る対応もしていた
となると、もうなすすべはなかった
のかもしれません。

やはりいつの時代も自然の脅威の前に
人間はじつに無力ですね。

304px-Toya-maru_1955
港へ曳航される洞爺丸
『アサヒグラフ』 1955年6月1日号

多数の犠牲者

未曾有の犠牲者が
出てしまったこの事故。

乗員・乗客1314名中、生存者は159名、
死者・行方不明者は1155名
に上りました。

1300人も乗っていてわずか159人しか
生きて帰れなかったんですね。

犠牲者には衆院議員の冨吉榮二、
国鉄札幌総支配人の浅井政治、
元宝塚女優の佐保美代子といった
著名人もいました。

北海道の七重浜(ななえはま)には
事故後、多くの犠牲者が打ち上げられた
のだそうです。

事故当時は激しい暴風雨の影響もあって
救助も遅れたために自力でここまで
泳ぎ着いたものの力尽きた者も多かった
と見られています。

また、犠牲者を弔うための火葬場が
足りない事態も起こったために
七重浜に仮の火葬場まで設置しました。

どれだけ大きな事故だったのかを
伺わせるエピソードですね。

この洞爺丸事故では洞爺丸だけでなく
ほか4隻の連絡船が同じく遭難し、
それを含めると最終的な犠牲者は
1430人にも上りました。

これは1912年のタイタニック号沈没、
1865年のサルタナ号火災に次ぐ
大規模な海難事故に数えられます。

その後について

じつはこの事故をきっかけとして
“青函トンネル構想”が急速に
実現に向かっていきました。

1988年に青函トンネルが開通した裏には
こうした悲劇も背景にあったんですね。

また、七重浜には事故の翌年に
犠牲者を悼む慰霊碑が建立されました。

世界的に見ても非常に多くの
犠牲者を生んだ洞爺丸事故。

このような痛ましい事故が二度と
起こらぬことを祈りたいですね。

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